冬の空は、鋭い。
吸い込む空気は冷たく、肺の奥まで洗われるような感覚。 週末の午前、僕は少しだけ丁寧にブラッシングしたネイビーのウールコートを羽織る。派手さはないが、袖を通すたびに自分の肌に馴染んでいくのを感じる、上質な一着。そんな、飾らないけれど確かなものに惹かれるようになったのは、この歳になってからだ。
「見て、雲ひとつないよ」
隣を歩く彼女が、分厚いマフラーに顔を埋めながら空を指差した。 見上げると、そこには深く、どこまでも澄み切った青が広がっていた。吸い込まれてしまいそうなほどの青だ。
若い頃、冬の空をじっくり見上げる余裕なんてなかった気がする。 常に何かに追いかけられ、成果を求め、地面ばかりを見て歩いていた。立ち止まることは停滞だと、自分に言い聞かせていた。冬の寒さはただ、僕の歩みを邪魔するものでしかなかった。
「綺麗だね」
僕は短く答え、彼女の手をそっと取り、自分のコートのポケットに引き入れた。 冷えた彼女の手が、僕の手のひらでゆっくりと温まっていく。そのささやかな温度のやり取りが、鋭い冬の空気に、柔らかな輪郭を与えてくれる。
「ねぇ、こんなに青いと、どこまでも行けそうな気がしない?」
彼女の無邪気な問いかけに、僕は少しだけ苦笑いした。 「どこまでも」なんて、もう無責任に言える若さではないのかもしれない。背負っているものも、守らなければならない現実も、今の僕にはたくさんある。
けれど、この澄んだ青空の下、彼女の温もりを隣に感じている今なら、そんな青臭い言葉も悪くないと思えた。
人生の冬、という言葉があるけれど。 もし今の僕がその季節にいるのだとしても、こんなに美しい青空を見られるのなら、それも悪くない。
空を見上げながら、僕は彼女と歩く歩幅を少しだけ緩めた。 この鮮やかな青を、できるだけ長く、僕たちの記憶に焼き付けておきたかったから。
