5月の風は、冬のそれとは違う香りがする。 どこか湿り気を帯びた、新しい緑の匂い。 仕事での論理や数字に追われる日々の中で、私はふと立ち止まり、その風を胸いっぱいに吸い込んでみる。
初夏の空気でゆっくりと満たされていく微細な感覚。 膨らみ、そして萎んでいくリズムに意識を置くと、騒がしかった頭の中が静まり、ようやく「今、ここ」にある景色が鮮明な輪郭を持ち始める。 過去への執着も未来への不安も手放し、この瞬間の体感だけを信じる「中今」の心地よさ。
「ねえ、歩くの早くない?」 隣を歩く彼女の、弾むような声に我に返る。 私は何も言わず、さりげなく歩幅を緩め、彼女の速度に自分のリズムを重ねた。 かつて機械の精度や効率を突き詰めていた私の視線は、今、彼女の表情のわずかな揺らぎを捉えるためにある。
ふいに吹き抜けた風が、彼女の薄手のブラウスを揺らし、髪をふわりとなびかせる。 不規則に踊るその髪の動きさえ、今の私にはこの世で最も美しい法則のように思えた。 以前の私なら「風が強いね」と事実を述べるだけだったかもしれない。 けれど今は、その風に翻弄される彼女の危うさも含めて、ただ愛おしく眺めている。
「あ、見て、ツツジが咲き始めてる」 彼女が指差す先には、鮮やかな色が初夏の光に透けていた。 効率も成果も、そこにはない。 ただ同じ風を感じ、同じ色を見つめている。 その事実だけで、胸の奥に確かな温度が灯る。
「そうだね」 短く答えた私の声は、5月の青い風に優しく溶けていった。 銀草が八千代にわたって靡き続けるように、この穏やかな静寂が、彼女の隣でずっと続いていくことを願っている。
