第15話 5月の風

5月の風は、冬のそれとは違う香りがする。 どこか湿り気を帯びた、新しい緑の匂い。 仕事での論理や数字に追われる日々の中で、私はふと立ち止まり、その風を胸いっぱいに吸い込んでみる。

初夏の空気でゆっくりと満たされていく微細な感覚。 膨らみ、そして萎んでいくリズムに意識を置くと、騒がしかった頭の中が静まり、ようやく「今、ここ」にある景色が鮮明な輪郭を持ち始める。 過去への執着も未来への不安も手放し、この瞬間の体感だけを信じる「中今」の心地よさ。

「ねえ、歩くの早くない?」 隣を歩く彼女の、弾むような声に我に返る。 私は何も言わず、さりげなく歩幅を緩め、彼女の速度に自分のリズムを重ねた。 かつて機械の精度や効率を突き詰めていた私の視線は、今、彼女の表情のわずかな揺らぎを捉えるためにある。

ふいに吹き抜けた風が、彼女の薄手のブラウスを揺らし、髪をふわりとなびかせる。 不規則に踊るその髪の動きさえ、今の私にはこの世で最も美しい法則のように思えた。 以前の私なら「風が強いね」と事実を述べるだけだったかもしれない。 けれど今は、その風に翻弄される彼女の危うさも含めて、ただ愛おしく眺めている。

「あ、見て、ツツジが咲き始めてる」 彼女が指差す先には、鮮やかな色が初夏の光に透けていた。 効率も成果も、そこにはない。 ただ同じ風を感じ、同じ色を見つめている。 その事実だけで、胸の奥に確かな温度が灯る。

「そうだね」 短く答えた私の声は、5月の青い風に優しく溶けていった。 銀草が八千代にわたって靡き続けるように、この穏やかな静寂が、彼女の隣でずっと続いていくことを願っている。

diary
naocha

製造現場の最前線で、長らく生産技術の仕事に携わってきました。
工作機械の緻密な構造や厳格な規律、そして効率化という名の「引き算」の世界で、日々研鑽を積んできた背景があります。
しかしある時、完璧な設計図の中にも「ゆらぎ」があることに気づきました。
それは、昼と夜の境界に現れる茜色の夕焼けや、どこからともなく漂う金木犀の香りのような、数値化はできずとも確かにそこに「在る」美しさです。
現在は、技術者としての客観的な視点を持ちつつ、物事の「中今(なかいま)」を大切にする精神で、何気ない日常を静かに観察しています。
このブログ『満月を知る』では、物事の本質を見抜こうとする、技術者ならではの視点余計な思考を削ぎ落としていく「引き算」の暮らし矛盾を抱えたまま、ただ「居る」ことの心地よさこれらを大切にしながら、日々の断片を綴っています。私にとって、そしてあなたにとって、世界が「塩大福」のような、甘みと渋みが調和した満腹な場所でありますように。

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