第24話 お香

雨上がりの夜は、空気がしっとりと重く、どこか懐かしい匂いがする。

そんな夜には、決まって引き出しの奥から小さな箱を取り出す。数ヶ月前に、旅先の古い雑貨店で見つけたお香だ。派手なパッケージではなく、生成りの紙に手書きの文字が少しだけ添えられた、簡素な佇まいのもの。

マッチを擦り、細い棒の先に小さな火を灯す。 ぷくっと膨らんだ赤い火種を確認して、そっと息を吹きかける。

ゆらゆらと、糸のように細い煙が立ち上り始めた。

今回の香りは、サンダルウッド。深く、落ち着いた木の香りだ。 かつての僕は、部屋を良い香りにしようと、強い香りの芳香剤をいくつも置いたり、流行りの香水を振りまいたりしていた。それは、自分の空間を何かで埋め尽くそうとする「足し算」の執着だったのかもしれない。

けれど、この一筋の煙がもたらす香りは、もっと謙虚だ。 部屋を支配するのではなく、空気にそっと寄り添い、僕の呼吸を深くしてくれる。

キャンドルの灯りの中で、ゆっくりと揺れる煙を眺める。 お香を焚くという行為は、ただ「香りを楽しむ」だけではない。灰が落ちるまでの十五分ほどの間、何もせずにただそこに「在る」ことを自分に許す、引き算の儀式だ。

「……ふぅ、」

深く息を吐くと、肺の奥まで静かな森のような香りが満ちていく。 スマホの通知も、テレビの音も、今はすべて遮断している。目に見える情報が消え、ただ鼻を抜ける香りと、煙の動きだけに意識が向く。そうしていると、日中の仕事でささくれ立っていた心が、ゆっくりと滑らかに整えられていくのが分かる。

形のないものは、時として形あるものよりも強く心に響く。 この香りが消えてしまえば、部屋にはまた元の静寂が戻るだけだ。けれど、その後の空気は、焚く前よりもずっと澄んで、軽やかになっている。

「足りないくらいが、ちょうどいいんだな」

最後の一筋の煙が消え、部屋に微かな余韻だけが残る。 灰を受け皿に落とし、僕は大きく伸びをした。目に見える贅沢は何もないけれど、この目に見えない安らぎがあれば、僕は明日もまた、僕らしく歩き出せる。

窓の外では、また静かに雨が降り始めたようだ。

diary
naocha

製造現場の最前線で、長らく生産技術の仕事に携わってきました。
工作機械の緻密な構造や厳格な規律、そして効率化という名の「引き算」の世界で、日々研鑽を積んできた背景があります。
しかしある時、完璧な設計図の中にも「ゆらぎ」があることに気づきました。
それは、昼と夜の境界に現れる茜色の夕焼けや、どこからともなく漂う金木犀の香りのような、数値化はできずとも確かにそこに「在る」美しさです。
現在は、技術者としての客観的な視点を持ちつつ、物事の「中今(なかいま)」を大切にする精神で、何気ない日常を静かに観察しています。
このブログ『満月を知る』では、物事の本質を見抜こうとする、技術者ならではの視点余計な思考を削ぎ落としていく「引き算」の暮らし矛盾を抱えたまま、ただ「居る」ことの心地よさこれらを大切にしながら、日々の断片を綴っています。私にとって、そしてあなたにとって、世界が「塩大福」のような、甘みと渋みが調和した満腹な場所でありますように。

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