平日の火曜日。いつも通り仕事を終え、静かな部屋に戻ってきた。
普段の平日の夜なら、手早くインスタントコーヒーを淹れてノートを開き、淡々と一日の引き算をするだけだ。けれど今夜は、部屋のチャイムがいつもと違う時間に静かに鳴った。
ドアを開けると、「お疲れ様」と仕事帰りの彼女が柔らかい笑顔で立っていた。その手には、小さなデパ地下の紙袋。 「今日、七夕だから。ちょっとだけ」と言って見せてくれたのは、星の形をした小さなチョコレートだった。
「せっかくだから、今日は美味しいコーヒーにしようか」
平日の夜にはめずらしく、僕は棚の奥からお気に入りのコーヒー豆の袋を取り出した。特別な時にだけ登場する、僕のささやかなこだわりだ。
手動のミルに豆を入れ、ゆっくりとハンドルを回す。 ゴリゴリ、ゴリゴリと、硬い豆が削られていく規則正しい音が部屋に響く。それと同時に、部屋いっぱいに香ばしく、深い珈琲の香りがふわりと広がっていった。
かつての僕は、イベントと言えばお洒落なレストランを予約したり、特別なデートプランを組み立てたりすることばかりを考えていた。何かを「付け足す」ことでしか、特別を演出できないと思い込んでいたのだ。
けれど、今の僕たちには、この平日の夜に豆を挽く静かな時間そのものが、何よりの贅沢な演出になっている。
丁寧に淹れたコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、彼女が買ってきてくれた星のチョコレートを小さな皿に並べる。部屋の明かりを少し落とし、いつものようにキャンドルに火を灯した。
窓の外を見上げても、都会の火曜日の夜空は明るく、天の川なんてものはやっぱり見えない。
「ねえ、これ『七夕デート』って言っていいのかな? 平日だけど」
マグカップを両手で包み、チョコレートを一口かじった彼女が、悪戯っぽく笑いながら訊ねてきた。
「どうだろう。どこにも出かけてないし、ただコーヒーを飲んでるだけだしね」
僕がそう答えると、彼女は「ふふ、そうだね。でも、これが一番落ち着く」と、嬉しそうに目を細めた。
七夕だからといって、大層な願い事を短冊に書くわけでもない。 ただ、平日の夜にこうして同じ部屋に集まり、挽きたてのコーヒーの香りを共有し、他愛のない言葉を交わす。その明確にしない緩やかさこそが、僕たちにとっての正解なのだと思う。
星は見えないけれど、キャンドルの炎に照らされた彼女の横顔は、どんな夜空よりも穏やかで、温かい。
ゆっくりとコーヒーを飲み干す頃には、週の半ばの疲れがすっかり引き算され、心には心地よい凪が訪れていた。明日になればまた、それぞれの仕事が始まる。けれど、この香ばしい夜の余韻があれば、僕たちはいつでも、自分たちの心地よい歩幅で歩いていける。
