雨上がりの夜は、空気がしっとりと重く、どこか懐かしい匂いがする。
そんな夜には、決まって引き出しの奥から小さな箱を取り出す。数ヶ月前に、旅先の古い雑貨店で見つけたお香だ。派手なパッケージではなく、生成りの紙に手書きの文字が少しだけ添えられた、簡素な佇まいのもの。
マッチを擦り、細い棒の先に小さな火を灯す。 ぷくっと膨らんだ赤い火種を確認して、そっと息を吹きかける。
ゆらゆらと、糸のように細い煙が立ち上り始めた。
今回の香りは、サンダルウッド。深く、落ち着いた木の香りだ。 かつての僕は、部屋を良い香りにしようと、強い香りの芳香剤をいくつも置いたり、流行りの香水を振りまいたりしていた。それは、自分の空間を何かで埋め尽くそうとする「足し算」の執着だったのかもしれない。
けれど、この一筋の煙がもたらす香りは、もっと謙虚だ。 部屋を支配するのではなく、空気にそっと寄り添い、僕の呼吸を深くしてくれる。
キャンドルの灯りの中で、ゆっくりと揺れる煙を眺める。 お香を焚くという行為は、ただ「香りを楽しむ」だけではない。灰が落ちるまでの十五分ほどの間、何もせずにただそこに「在る」ことを自分に許す、引き算の儀式だ。
「……ふぅ、」
深く息を吐くと、肺の奥まで静かな森のような香りが満ちていく。 スマホの通知も、テレビの音も、今はすべて遮断している。目に見える情報が消え、ただ鼻を抜ける香りと、煙の動きだけに意識が向く。そうしていると、日中の仕事でささくれ立っていた心が、ゆっくりと滑らかに整えられていくのが分かる。
形のないものは、時として形あるものよりも強く心に響く。 この香りが消えてしまえば、部屋にはまた元の静寂が戻るだけだ。けれど、その後の空気は、焚く前よりもずっと澄んで、軽やかになっている。
「足りないくらいが、ちょうどいいんだな」
最後の一筋の煙が消え、部屋に微かな余韻だけが残る。 灰を受け皿に落とし、僕は大きく伸びをした。目に見える贅沢は何もないけれど、この目に見えない安らぎがあれば、僕は明日もまた、僕らしく歩き出せる。
窓の外では、また静かに雨が降り始めたようだ。
