週末の朝、いつもより少しだけ早く目覚まし時計が鳴った。
普段の僕なら、休日の朝は部屋から一歩も出ずにキャンドルを灯して過ごすところだけれど、今朝はバックパックに水筒を詰め、履き慣れたスニーカーの紐をきつく結び直した。隣では、彼女が動きやすい服装で、髪をすっきりと一つにまとめている。
向かったのは、都心から電車で一時間ほど揺られた場所にある、小さな低山だ。
駅を降りると、都会のコンクリートが放つ熱気とは明らかに違う、ひんやりとした土と葉の匂いが鼻をくすぐった。一歩、山道に足を踏み入れると、すぐにあたりの景色は深い緑色に包まれる。
サク、サク、と自分の足が地面を踏みしめる音だけが響く。
かつての僕は、どこかへ出かけるとなれば、有名な観光地や話題のテーマパークなど、何かを「体験する」ための足し算ばかりを考えていた。スケジュールをぎっしりと埋め尽くし、帰る頃にはすっかり疲弊しているような、そんな休日だ。
けれど、今の僕たちに必要なのは、そういう刺激ではない。 ただ、スマホの通知が届かない場所に身を置き、頭の中の雑音を削ぎ落としていく「引き算の旅」だ。
「空気が、おいしいね」
前を歩く彼女が、ふと振り返って微笑む。木漏れ日が彼女の肩を柔らかく照らしていた。 私たちは、歩くスピードを競うわけでもなければ、どちらがリードするわけでもない。ただ、お互いのちょうどいい歩幅を崩さないように、つかず離れずの距離を保ちながら、淡々と坂道を登っていく。
言葉は多く必要ない。 急な斜面では自然と手が差し伸べられ、開けた場所に出れば、並んで深く息を吐き出す。
未来の形を急いだりしなくても、こうして同じ景色を眺め、同じリズムで呼吸をしているだけで、十分すぎるほどの信頼がそこにあると分かる。
頂上に着き、大きな岩の上に腰を下ろした。 バックパックから、持参した保温ボトルを取り出す。中身は、家で淹れてきた温かいコーヒーだ。山頂の少し冷たい風に吹かれながら、二つのマグカップに注ぎ、彼女に手渡す。
「贅沢だなぁ」と呟く彼女の声が、鳥のさえずりと一緒に静かに消えていく。
下りの電車に揺られる頃には、身体には心地よい疲労感が残っていたけれど、頭の中は驚くほどすっきりと凪いでいた。部屋に帰り、いつものように明かりを落とした空間に戻ったとき、私たちの日常は、行く前よりも少しだけ軽やかで、澄んだものに変わっているはずだ。
