第19話 生姜湯と引き算の夜

「今日は、もう何も考えたくない……」 部屋に帰るなり、彼女はベッドに倒れ込み、クッションに顔を埋めたまま動かなくなった。仕事のプレッシャーや人間関係の摩擦で、彼女の心のコップが溢れそうになっているのが、言葉にしなくても伝わってくる。

かつての私なら、「何があったの?」と原因を問い詰め、解決のための論理的なアドバイスを並べていたかもしれない。それが相手を想うことだと勘違いしていたからだ。

けれど、今の私は静かに台所へ向かう。 お湯を沸かし、生姜を薄く刻む。レシピ通りの完璧な分量ではなく、今の彼女の弱った輪郭が、一番心地よく受け入れられるような温かさと甘さを想像しながら、ゆっくりと手を動かす。化学反応のように、お湯の中に生姜の鋭さと蜂蜜のまろやかさが溶けていく。

湯気を立てるマグカップを手に、寝室に戻る。 「少し、温かいものでも飲む?」 枕元にそっと置くと、彼女はモゾモゾと顔を出し、申し訳なさそうに身を起こした。

「……ありがとう。何もできなくてごめんね」 「いいよ。何もしないのが、今夜の正解だから」 私はそう言って、彼女から少し離れた床に腰掛け、一冊の本を開いた。

「こうすべきだ」という正しさをすべて削ぎ落とした、引き算の看病。風に靡く芒のように、彼女の「今は立ち上がれない」という状態を、そのまま等身大で全肯定して寄り添う。気の利いた慰めの言葉は言えないけれど、私がただ隣で静かに息をしていることが、彼女の「隙」になればいい。

ゆっくりと生姜湯を口に含む彼女の、喉が鳴る微細な音。 「あったかい……」 彼女の口元に、小さな、本当に小さなほっこりとした緩みが戻る。その笑顔を見るためだけに、私は今夜、この静寂の庭を守り続けている。

diary
naocha

製造現場の最前線で、長らく生産技術の仕事に携わってきました。
工作機械の緻密な構造や厳格な規律、そして効率化という名の「引き算」の世界で、日々研鑽を積んできた背景があります。
しかしある時、完璧な設計図の中にも「ゆらぎ」があることに気づきました。
それは、昼と夜の境界に現れる茜色の夕焼けや、どこからともなく漂う金木犀の香りのような、数値化はできずとも確かにそこに「在る」美しさです。
現在は、技術者としての客観的な視点を持ちつつ、物事の「中今(なかいま)」を大切にする精神で、何気ない日常を静かに観察しています。
このブログ『満月を知る』では、物事の本質を見抜こうとする、技術者ならではの視点余計な思考を削ぎ落としていく「引き算」の暮らし矛盾を抱えたまま、ただ「居る」ことの心地よさこれらを大切にしながら、日々の断片を綴っています。私にとって、そしてあなたにとって、世界が「塩大福」のような、甘みと渋みが調和した満腹な場所でありますように。

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