仕事帰りの夕暮れ時、街のコンクリートが昼間の熱をじっと吐き出している。
部屋に戻り、ネクタイを緩めて真っ先にベランダの窓を開けた。夕方の風は、室内のこもった空気よりもいくらか涼しく、肌に心地いい。キッチンで手早くインスタントコーヒーを淹れ、温かいマグカップを片手に、再びベランダへと出た。
遠くの空が、ゆっくりと茜色から薄紫色のグラデーションへと染まっていく。
ぼんやりとコーヒーをすすりながらその景色を眺めていると、視界の端を、小さな影がすうっと横切った。
夏のトンボだ。
まだ秋のそれのように群れて飛ぶわけではなく、一匹、また一匹と、高い空を気持ちよさそうに滑空している。夕日を浴びて、その薄い羽が一瞬だけきらりと金色に光った。
かつての僕なら、日々の忙しさに追われ、空を見上げることすら忘れていた。トンボを見かけたとしても、「もうそんな季節か」と記号的に処理して、すぐにスマホの画面に目を戻していただろう。効率的に時間を使い、スケジュールを消化することだけに追われていた、引き算のない暮らし。
けれど今は、こうしてベランダの手すりに寄りかかり、コーヒーの湯気の向こうで気ままに円を描くトンボの姿を、ただ淡々と目で追う心の余白がある。
ふと見ると、ベランダの物干し竿の端に、昨日彼女が干していった小さなハンカチが、夕風に吹かれて静かに揺れていた。
言葉で何かを約束しているわけではないし、大袈裟なルールがあるわけでもない。平日はそれぞれの場所で自分の時間を過ごし、週末になれば、どちらからともなくこの部屋に集まる。そのつかず離れずの距離感が、今の僕には驚くほど自然に馴染んでいる。
夕空を飛ぶトンボのように、お互いの自由な軌道を邪魔せず、それでも同じ空間の空気を心地よく共有している。そんな静かな関係の体温を、残された一枚のハンカチの気配から、じんわりと受け取っていた。
トンボの影が、だんだんと深くなっていく夜の闇に紛れて見えなくなる。
最後の一口のコーヒーを飲み干すと、インスタントの心地よい苦味が、身体の芯をそっと落ち着かせてくれた。
部屋に戻り、いつものように明かりを落としてキャンドルに火を灯す。 明日もまた、いつも通りの淡々とした一日が始まる。けれど、この夕暮れ時に見上げた小さな羽のきらめきと、部屋に漂う穏やかな気配があれば、僕はいつでも自分の心地よいリズムを守っていくことができる。
