第32話 七夕デート?

平日の火曜日。いつも通り仕事を終え、静かな部屋に戻ってきた。

普段の平日の夜なら、手早くインスタントコーヒーを淹れてノートを開き、淡々と一日の引き算をするだけだ。けれど今夜は、部屋のチャイムがいつもと違う時間に静かに鳴った。

ドアを開けると、「お疲れ様」と仕事帰りの彼女が柔らかい笑顔で立っていた。その手には、小さなデパ地下の紙袋。 「今日、七夕だから。ちょっとだけ」と言って見せてくれたのは、星の形をした小さなチョコレートだった。

「せっかくだから、今日は美味しいコーヒーにしようか」

平日の夜にはめずらしく、僕は棚の奥からお気に入りのコーヒー豆の袋を取り出した。特別な時にだけ登場する、僕のささやかなこだわりだ。

手動のミルに豆を入れ、ゆっくりとハンドルを回す。 ゴリゴリ、ゴリゴリと、硬い豆が削られていく規則正しい音が部屋に響く。それと同時に、部屋いっぱいに香ばしく、深い珈琲の香りがふわりと広がっていった。

かつての僕は、イベントと言えばお洒落なレストランを予約したり、特別なデートプランを組み立てたりすることばかりを考えていた。何かを「付け足す」ことでしか、特別を演出できないと思い込んでいたのだ。

けれど、今の僕たちには、この平日の夜に豆を挽く静かな時間そのものが、何よりの贅沢な演出になっている。

丁寧に淹れたコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、彼女が買ってきてくれた星のチョコレートを小さな皿に並べる。部屋の明かりを少し落とし、いつものようにキャンドルに火を灯した。

窓の外を見上げても、都会の火曜日の夜空は明るく、天の川なんてものはやっぱり見えない。

「ねえ、これ『七夕デート』って言っていいのかな? 平日だけど」

マグカップを両手で包み、チョコレートを一口かじった彼女が、悪戯っぽく笑いながら訊ねてきた。

「どうだろう。どこにも出かけてないし、ただコーヒーを飲んでるだけだしね」

僕がそう答えると、彼女は「ふふ、そうだね。でも、これが一番落ち着く」と、嬉しそうに目を細めた。

七夕だからといって、大層な願い事を短冊に書くわけでもない。 ただ、平日の夜にこうして同じ部屋に集まり、挽きたてのコーヒーの香りを共有し、他愛のない言葉を交わす。その明確にしない緩やかさこそが、僕たちにとっての正解なのだと思う。

星は見えないけれど、キャンドルの炎に照らされた彼女の横顔は、どんな夜空よりも穏やかで、温かい。

ゆっくりとコーヒーを飲み干す頃には、週の半ばの疲れがすっかり引き算され、心には心地よい凪が訪れていた。明日になればまた、それぞれの仕事が始まる。けれど、この香ばしい夜の余韻があれば、僕たちはいつでも、自分たちの心地よい歩幅で歩いていける。

diary
naocha

製造現場の最前線で、長らく生産技術の仕事に携わってきました。
工作機械の緻密な構造や厳格な規律、そして効率化という名の「引き算」の世界で、日々研鑽を積んできた背景があります。
しかしある時、完璧な設計図の中にも「ゆらぎ」があることに気づきました。
それは、昼と夜の境界に現れる茜色の夕焼けや、どこからともなく漂う金木犀の香りのような、数値化はできずとも確かにそこに「在る」美しさです。
現在は、技術者としての客観的な視点を持ちつつ、物事の「中今(なかいま)」を大切にする精神で、何気ない日常を静かに観察しています。
このブログ『満月を知る』では、物事の本質を見抜こうとする、技術者ならではの視点余計な思考を削ぎ落としていく「引き算」の暮らし矛盾を抱えたまま、ただ「居る」ことの心地よさこれらを大切にしながら、日々の断片を綴っています。私にとって、そしてあなたにとって、世界が「塩大福」のような、甘みと渋みが調和した満腹な場所でありますように。

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